断じて熱中症ではない・1

 二人とも完全に油断していた。

 

 とある夏の、土曜の昼下がりのことである。

 その日のS宿駅西口にある某ビルの温度計は、36度を示していた。

 それ自体は特に珍しいことでもない。

 しかし、そんな酷暑日ともいえる日に、彼と彼女はエアコンが壊れている飲食店にうっかり入ってしまい、ならばすぐに出ればいいものを、「少しなら大丈夫なのでは」と二人で話しながら料理を待っていたら、思いのほか待たされてしまった……という出来事は、二人にとって完全に予想外のことだった。

 ちなみにエアコンは最後まで壊れたままで、待っていた料理はアツアツのラーメンだ。

 

 

 ──……つまり、汗をかきすぎた。

 

 

「……このあとどうなってもいいや、ってくらい濡れちゃいましたね……」

 

 彼女と彼がため息をつきながら店を出ると、入る前と同じく強烈な日差しが路上と人々を焼いていた。

 汗だくになってしまって体に張り付いた自分のシャツワンピースをけだるげにつまみながら、彼女はため息をつく。いつもは笑顔を絶やさない彼女だが、流石に暑さで参ってしまったようだ。頬がバラ色になっている。

 

「こういうのって、アレを思い出しません? 子どもの頃の、下校途中に傘持ってないのに土砂降りの雨が降ってきた時の十分後みたいなアレ」

「あーあったなーそういう時。確かに限界まで濡れて、何もかもがどうでもよくなった記憶があるような……」

 

 と、彼は彼女に負けないけだるさを漂わせながら答える。

 ──涼しげな目鼻立ちをしているのだが、今の彼は流石にどこからどう見ても暑そうだ。ゲーム開発者である彼は、常にエアコンの効いた室内でPCモニタとにらめっこな生活をしているため、暑さにはめっぽう弱い。

 

「大丈夫ですか? なんだか眠そうでだるそうですよ」

「看護師は人の変化に気づくのが早いなあ。でも、俺が眠そうなのっていつものことじゃないか? 会う人会う人から言われているし」

「いやなんか、いつも以上に眠そう……というか、辛そうです。熱中症に気をつけないと」

「それを言ったら君の方が心配だな。頬が真っ赤になってるぞ」

 

 彼はそう言いながら交差点前の赤信号で立ち止まって彼女の頬に触れる。彼女はそれに情けなさそうな笑みを浮かべて答えた。

 

「ラーメン屋さん、暑かったですもんねえ。味は美味しかったんですけど……」

「前から君が行きたがっていたから連れて行きたいと思っていたんだが……なにも今日無理して行くべきではなかったのかもな」

 

 普段は行列が出来ている店なので、エアコンが壊れて「並ばなくて済んでいいのでは」と思ったのがいけなかった……と、生真面目な彼は自分の選択を反省しきりだ。

 

「気に病まないで下さい、私も同じこと考えちゃったんだし……あ、信号青ですよ。渡っちゃいましょう」

 

 そう言うと彼女は彼の手を引いて、交差点を駆け出した。渡りきってからため息をつく。

 

「まるで蒸し風呂の中にいるみたいですね……汗で熱を発散できている気がしません。大丈夫ですか?」

「なんとか」

 

 こんな時でさえ彼を気遣う彼女と、気の利いたことを言う元気はないが黙って彼女の手首を掴み直して、手近な店に避難させる彼。

 ……某庶民の味方のどこにでもある有名衣料店だ。

 

 

 

「いやもうこれは諦めて、家に帰ろう」

 

 彼は店のエアコンの冷風を受けながら、自分の体を見下ろしてため息をついた。

 自分の恰好(かっこう)を見ても彼女の様子を見ても、エアコン程度では服が乾きそうもない。せいぜいが風邪をひくのが関の山だろう。

 この衣料店があるビルの地下二階は、O江戸線S宿西口駅に直結している。

 そこから出ている地下鉄に乗れば、自分の住む東S宿には四分で着くと彼は言う。

 

「ええー。でも帰って、それからどうしますか? いつものおうちデートでやるようなことしか出来なくなっちゃうような……」

 

 と、彼女は笑顔を曇らせて、少し残念そうに唇を尖らせる。

 涼しくなった空気にほっとしたような表情を見せつつも、デートに未練があるようだ。

 

 ──実はここ一、二か月ほど、彼女は勤務時間外の委員会や研究の準備で忙しくしていた。だから今日のデートは楽しみにしていたのだ。

 

 看護師であり世間の休日とは全く無関係な働き方をしている彼女と、エンジニアであり土日休み固定の彼とでは、休みが合う日は滅多にない。

 だから、デートの日程合わせは自然とどちらかが無茶をする形でやることになる。今日は彼女が無茶をしていた。

 夜勤明け……つまり、彼女は昨日の昼から今に至るまで一時間ほどしか寝ていない状態で、この場所にいるのである。

 夜勤明けな上に時間外業務でボロボロなので、流石にあまり遠くに行くことは出来ず、場所は近場の新宿になってしまったのだが。

 

「でも駄目だ。夜勤明けの君に無茶をさせるわけにはいかない」

 

 彼の答えは変わらない。

 彼は彼女が逃げないようにしっかり手首をつかんだまま、有無を言わせぬ様子で首を振った。その様子からは彼女に対する心配がありありと見て取れる。

 ──彼にとってはいつものことだが、睡眠不足気味の彼女はいつもより少し我儘(わがまま)で、そしてそんな彼女を諭すのが、彼女と知り合ってからの彼の役目だった。

 彼と彼女は七歳も歳の差があって、そのせいか彼は彼女に対してどうしても保護者のような接し方をしてしまう。社会人になって間もない彼女は軽率な行動をすぐにとるからだ。

 

「今日の君は明らかに睡眠不足で、いつもより弱っているだろ? 万が一にも熱中症で死んだらどうするつもりなんだ」

「でも」

「でもじゃない。俺は君が死ぬリスクがあるようなことは到底受け入れられないぞ」

 

 そう言って、彼は彼女の頭を軽くポンとたたいた。

 彼女は非常に背が高い。なので二人の身長差はせいぜい五センチ前後しかなく、決して保護者被保護者のような関係性には見えない。だが、出会ったきっかけがゲームであり、成人男性のアバターだった彼は少女のアバターだった彼女の手を引いて走り続けて戦っていた。最初からそんな関係だったためか、今でもそれが彼らにとっては自然な関わりかたになっている。

 

「とにかく、まずはいったん俺の家に引っ込もう。それで引っ込んだ後は……」

 

 と、彼は言いさした後、むっと口を閉じて目を伏せて、引っ込んだ後のことについて考えた。

 

 ──二人とも何もかもがどうでもよくなるくらい汗で濡れてしまったのだから、家に帰ったら服は当然速攻で洗濯機行きで、体の方も汗を流さなければならないだろう。

 

(順番に風呂に入るのは、この場合ちょっと難しいよな……ってことはつまり……)

 

 と、そこまで考えて、彼の脳裏にあまりに保護者らしからぬ不穏(ふおん)な考えが浮かんだ。

 タイミングがいいのか悪いのか、いや間違いなく悪いのだが、自分の手からは彼女の体温も柔らかさも十分に伝わってくる。

 彼は思わず一瞬彼女の手首を強く握ってしまったものの、すぐにその手を離して頭を振り、自分の考えをも振り払った。彼女の体調が怪しい時にそれはいけない。

 

 

「──ゲームが良いと思うなあ!」

「えっ?」

「ゲームがやりたいなあ! 俺はゲームが大好きだからなあ!!」

「は……!? あの、何言っちゃってるんですか? 暑さで頭がおかしくなっちゃったんですか……?」

 

 と、彼女は先ほどまでの未練たらたらな様子から一変して、心配そうな様子で彼を見上げる。

 

「俺はゲームが大好きだぞ! 君は違うのか!?」

「いや私も大好きですけど、でも、えええ……?」

 

 周囲で商品を物色していた人たちも、何事かと彼らのことをチラチラと見ていた。

 彼女はしばらくの間オロオロしながら買い物客と一緒になって彼を心配そうに見ていた。が、フッと何かに気付いたようで、まるで名案を思いついた風にポンと自分の両手を合わせる。

 

「──そうだ! 熱中症が心配なら、お風呂とかどうですか?」

「ぶっ!!」

 

 今まさしく自分が考えてしまったことを言い当てられてしまい、変な音を出してしまう彼。

 

「え、風呂……風呂!?」

「お風呂です! だってほら、バスボムで泡風呂とかやったら楽しそうじゃないですか?」

 

 彼女は彼や周囲の人々の様子のおかしさに気をとめることもなく、至って平然とニコニコしていた。

 ──これは平常運転というより、彼女も暑さと寝不足で頭が参ってしまっているせいだろう。優しげな目は潤んでぼうっとしているし、頬は相変わらず綺麗なローズピンクに染まっている。……どう見ても体調赤信号だ。

 

「確か地下道の石鹸屋さんの簡易店舗なら、ここからすぐ近くのところにありますよね? あそこでバスボム買って、あとはファストファッションのお店で水着を買って、それで東S宿のおうちで泡風呂をやりましょう。SNSで見たんですけどあの服屋さん、今夏物のセールやってるんですよ。ぬるい水風呂にしたら熱中症対策にもなりますし。ね、ね?」

 

 と、彼女は喋っているうちにますます自分のアイデアが気に入ったようだ。

 しかし、彼のほうはというとまだ状況が()み込めていない顔をしている。

 

「……風呂? 風呂??」

「お風呂です! そうと決まったら行きましょう、まずはラメがぎっしり詰まったバスボムを探しに行かなきゃ!」

 

 ……と、彼女はガッと彼の腕をつかみ、戸惑(とまど)いまくっている彼の返事を待たずに歩き出した。

 そうして地下道の石鹸屋簡易店舗で手頃な値段のバスボムを買い、衣料店で安くなっていた水着を試着もせずに買い(スタイルに恵まれた女の子の特権だ)、さっさと地下道に戻ってS宿西口駅の電車に乗り込んでしまう。

 

 そんなこんなで彼と彼女は日差しの照り付ける東S宿の四階建てマンションの最上階に引っ込んで、そうこうしている間にも時計の短針はくるくると進み、二時間半ほど経過して、土曜日もいよいよ後半戦。

 

「楽しかったー!」

 

 二人分の水着を放り込んだドラム式洗濯機がごんごんと音を立てて回り始めている。

 彼女は頭から大判のタオルを(かぶ)り、帰りの道中で買ったペットボトル入りのサイダーを飲みながら満足そうに笑った。

 

「お風呂デート楽しかったです、付き合ってくれてありがとうございました!」

 

 エアコンの効いた空気で満たされた1LDKの居間の真ん中に彼女は座り込んでいる。

 大きな単層ガラス張りの窓の外からは、いまだに殺人的な(まぶ)しさを持つ日光線が降り注いでいるのが見える。

 日の光のせいだろうか、外の景色はなんとなく白っぽく見えて、電気もつけず日陰になっているからか部屋の中は青みがかって見えた。外はどう見てもまだまだ暑いが、ガラス窓で隔てられたこの部屋の中は安全だ。

 

「今度はあの水着を着て、一緒にナイトプールに行きましょうね。

 あれも水が冷たくて非日常感があって、凄く楽しいんですよー」

 

 そう言って笑う彼女の手元のサイダーがしゅわしゅわと泡立っている。ルームウェアは彼から借りたもので、汗で濡れた髪をシャンプーで洗ったためか非常にすっきりした様子だった。

 

「楽しめたようでよかったよ」

 

 と、彼は苦笑交じりにタオルで頭を拭きながら冷蔵庫を開けて、常備(じょうび)しているペットボトル入りの水を出して飲む。三十という微妙なお年頃である彼は、必要以上の糖分を取りたがらないのだ。彼もまたTシャツにハーフパンツと言う完全に自宅仕様の格好だった。

 

 ──お風呂デートなどというよく分からないことをやってしまったが、彼女が喜んでくれたのなら本当に良かったと、彼は心からそう思っている。

 ……いや、よく分からないことというわけではない。やるところではやる。

 ただその場合のカテゴリーは、かなりの確率で成人向けだ。

 

(……玄人(くろうと)向けの高難易度イベントが発生しなくて本当によかった……)

 

 計画外のプレッシャーに弱い彼は、しみじみした表情でそんなことを考える。

 なにせ風呂などという狭い空間だ、出来ることなどそんなにない。

 しかし、曲がりなりにもデートであるのだから、乙女ゲームのイケメンよろしくあんな楽しみ方こんな楽しみ方そんな楽しみ方まで彼女に提案しなければならないのでは……と、彼は風呂に入る直前まで内心ブルブル震えていたのだ。

 しかしふたを開けてみれば、彼と彼女の水着を着た状態でのお風呂デート(……?)は、いたって普通&健全な形で終わった。

 

 もちろん、好きな女性の体のラインが出ている姿を見た彼に、やましい気持ちが起こらなかったわけではない。

 

 ……だが、彼女が大はしゃぎでバスボムの泡にまみれた自分たちの写真をスマホで撮りまくっているのを見ていると、気分は孫を見守るおじいちゃん、あるいはドッグランで大はしゃぎする大型犬を見守る飼い主てなものだったのだ。

 

(いや、どうみても孫じゃないな。大型犬だ。大型犬一択だ)

 

 と、彼は自分を見上げて更に嬉しそうにニコニコしている彼女の姿を見てそう思った。 

 

(しっぽを激しく振っているのが見える……)

 

 人間である彼女にそんなものがついているわけがないのだが、彼にはなぜかはっきりとそれが見えた。

 彼女は上機嫌でスマホをいじり、なにやら画像を加工しているようだ。

 座り込んだまま上機嫌に作業に没頭している彼女を微笑ましく思いながらも、彼はなんとなく水を飲みながら窓辺に立った。

 彼が窓の外に目を向けると、日差しは少しずつ夕暮れ前のそれに変わりつつあり、金色と夕日色の境目のような光が都心のビル群を照らしているのが見える。空は日差しの色が変わってもなお鮮明(せんめい)なコバルトブルーを維持していた。

 

(服を洗濯中だから彼女には適当な格好をさせてしまうことになるが、日が落ちたらまた外に出てもいいのかもしれないな……あんなに外に出たがっていた訳だし。

 外の店に食事に出るだけでも……いや、そういえば夜勤明けだったか。いつもの感じだと、たぶん後二、三時間もしたら寝落ちしていそうだよな……)

 

 と、彼は長時間の水遊び後特有のけだるさにつつまれながら、色々なことを考える。

 夜勤明けの彼女は神経が高ぶっているせいか、昼のあいだは妙にハイテンションなことが多い。

 しかし、そんな時の彼女は夕方が近づくにつれてだんだん無口になっていき、むすっとした表情になり、いきなりガクっと寝てしまうのだ。

 

 ……その姿はまるでゲームの中で初めて会った時にダウンしてしまった彼女のようで、そんな風に明らかに異常な眠り方をする彼女を見て、『夜勤』という勤務体系の過酷さ異常さについて彼は改めて考えるのだった。