秋の夕空、金色、はんぶんこ

 彼女が安っぽい単層ガラス窓をガラリと開けると、ひやりと清涼な空気が部屋の中に入ってきた。

 

「ふーっ、生き返るー」

 

 揺れたカーテンが風といっしょに彼女の頬をかすめたので、彼女は思わず笑みをこぼした。

 

 ──空気が酸っぱい黒ずんでいると散々な言われようの大都会・S宿にも、当然ながら秋は来るし、まれに清涼な空気が流れる時もある。

 

 今日はまさにそんな日で、彼のマンションの窓から顔を出した彼女は、気持ち良さそうな顔をして窓の外を見ていた。薄い青紫の空の下にはもう夜景めいたビルの窓明かりや車のテールランプが見え始めている。

 

「……もっと早く開ければよかったです」

 

 彼女が苦笑まじりに言う。

 付き合って一年経ってもまだ初々しさの抜けない彼と彼女は、窓を開けるタイミングさえ上手くつかめない中、いつのまにやら部屋がとても暑くなっていることに気がついた。

 ゲーム機から出る熱風で、部屋があたためられてしまったのだろう。

 そのうえPCからも容赦なく熱風が出てきているのだから、部屋の中だけ夏のような温度になってしまっても無理はない。

 

 結果、熱風に茹で上げられた彼女が窓を開けてみれば、外はすっかり肌寒い秋だった……という経緯だった。

 

 秋の入り口とはいえ頃合いは日没後の夕方で、外の空気はそれなりに冷たい。

 彼女のセミロングの黒髪や、彼女が着ている大きくて白いTシャツ型ひざ丈ワンピースのすそが風で大きく揺れている。

 胸にはアメリカの地名が大きくプリントされており、少年めいた印象の強い、いわゆるカレッジロゴと呼ばれるデザインだった。

 

「もう全然夏の空気じゃないですね。やっとエアコンが要らない季節が来ました。

 涼しい空気がほら、こんなに」

 

 激しく行きかう車のヘッドライトやテールランプの光をちらりと見た後に、彼女は部屋の中に目を戻す。

 彼女の目線の先にはテレビの前の床に座り込んだ彼がいて、彼がとても眠そうな目をしているのは、元々の顔立ちもあるが、単純に本当に眠くなっているからだった。

 

「……眠い」

「寝ればよかったのに」

「ゲームをやっている人間の横で寝るのは失礼だろう」

「そんなこと、今この瞬間まで考えてもいませんでした。気にしないで良いのに」

 

 彼女がそう言ってくすくすと笑い、ゲームで凝り固まった肩をほぐすようにうーんと伸びをする。

 そのひょうしにスカートの(すそ)が大きく上がったが、彼はそれを見ないよう慌てた風に目をそらした。流行のだぼだぼした服を着ていることの多い彼女にしては珍しい格好だと彼は思った。……妙に露出度(ろしゅつど)が高いのである。主に足の露出度が高い。

 

「ゲームしてたらお腹すいちゃった。さっきコンビニでプリン買ってきたんですよ。ちょっと遅いけど、おやつにしましょう」

 

 と、言いながら、彼女はすたすたと台所に向かう。

 目の前を横切る白くすんなりした足を、彼は思わず目で追った。もちろんすぐに頭を振って目をそらしたが。

 彼女はそんな彼の様子に気づいた風もなく、冷蔵庫の前でしゃがみこみ、ふっと彼の方を見て、

 

蒔田(まきた)さんもいりますか?」

「……君のを半分貰っていいか?」

「え、蒔田さんの分も買ってありますけど」

「半分がいいんだ。

 夕食前だし、丸ごと一個食べるのは健康に良くない。半分だけ欲しい」

「ダイエット中の女子高生みたいなことを言うんですね……いいですけど」

 

 なぜか恥ずかしそうに目を伏せてしまった彼を見て、彼女は思わず苦笑する。

 そういえばポテチもあったといいながら、彼女は冷蔵庫前に置いていたコンビニ袋からポテトチップスを取り出した。すると、彼がとても言いづらそうな様子で、

 

 

「……それも、できたら半分貰」

「もうはんぶんこする意味なくないですか?」

 

 堪えきることが出来ずに彼女はくすくすと笑いだした。

 それでもはんぶんこには応じる心算(つもり)のようで、台所の食器棚を漁り始める。

 

「じゃあはんぶんこしちゃいましょうね。ええっと、丁度いいお皿はどこかなー……ってなんですかこれえっ!?」

 

 彼女の大きな声に、彼が顔を上げる。

 彼女が両手に持っていたのは金ピカのお茶碗だった。

 

「なにって……牛丼屋の茶碗だが?」

 

 彼はいたって冷静な表情で、なぜ彼女が驚いているのかも分からない風に首をかしげる

 

「えっ……一体なんで牛丼屋の金のお茶碗がこんな所に……? ひょっとして盗んで来ちゃったんですか?」

「失敬な。ちゃんとスタンプを集めて貰ったんだ」

「スタンプを集めて貰ったって……二個も?」

「二個もだ。悪いか?」

 

 馬鹿にされているのかと思って少しムッとした顔をする彼だったが、しかし彼女が純粋に驚いているだけだということに気が付いて表情を戻す。そしてばつがわるそうに頭をかきながら、

 

「……昔から、そういうのが好きなんだよ。ドーナツ屋でポイント集めて弁当箱を貰ったりするやつが」

 

 と、ため息をつく。その説明に彼女は納得した風に頷いた。

 

「そういえばありましたねえそういうのが。なんだか蒔田さんの意外な一面を知って得した気分です」

「意外かあ? 昔は太ってたって言っただろ。mottainai精神とポイントに執着した人間は、大体無駄なカロリーを摂り続けて太りまくる運命にあるんだぞ」

「過去に太っていたことがあるって情報だけでポイント大好き人間だなんて予測できるわけがないじゃないですか……。

 うわーあのパン屋さんこんなグッズ出してたんだ……本当にチェーン店とポイント集めが好きなんですね……ってわあっ、餃子屋さんのもありますよ! 底に『令和記念』ってプリントされてる!!」

 

 一見クールで何事にもこだわりがなさそうな彼の食器棚が無料のオマケ陳列庫のような様相を(てい)しているので、彼女は「わあ」とか「こんなオマケがあるんだ!」だとか声を上げながら、楽しげに食器棚を漁り始めた。

 彼は苦笑しながら起き上がり、きゃいきゃい言いながら皿やコップのロゴを確認している彼女の側にしゃがみ込んで事情を説明する。

 

「……今はもう潰れてしまったが、二丁目の某老舗スーパーでは、ビールやらウイスキーやらのオマケについてるグラスを全部取ってしまっていてな。その取ったやつを、レジの前の段ボールに入れて無料で取り放題にしていていたんだ。その時に貰ったやつが色々あるんだよ」

「なるほどどおりで。

 蒔田さんてお酒は飲まないのになんで家にビールグラスなんかあるんだろうと思ったら、そういうことだったんですね。

 ……そういえば、Tシャツもゲーム制作会社が無料配布しているようなのをそのまま着ている時がありますよね?」

「それは職業柄だなあ。ゲームイベントのビジネスデーにはそういうのがよく配られているから、どうしても企業のロゴが入ったTシャツが多くなるんだ。グラフィックボードのオマケに付いてくるときもあるし……捨てるのはもったいないだろ?」

「それは確かに」

 

 嘘か本当か分からないようなことを言う彼と、真偽の判断のしようがないのでとりあえず頷く彼女。

 ……と、彼女はふと思いついたことがあるらしく、金の茶碗を両手に持ったままこういった。

 

「蒔田さん、牛丼屋に行きませんか? お腹がすきました」

「唐突だな」

「唐突じゃありませんよ。これ見てたら行きたくなりました。私、もう随分牛丼屋には行ってないんです」

 

 と、彼女はずずいと金ぴかの茶碗を彼に突き出す。しかし彼は気乗りしない様子で顔をしかめている。

 

「……いや、その、健康に悪いからい」

「令和記念のラーメン丼ぶりが家にある時点で、健康も何もないと思いますけど? 手遅れですよね??」

「うっ……」

「健康のことは明日から考えましょう。牛丼屋に行きたいです。牛丼屋が良いです。煮詰まってからくなった味噌汁が飲みたいし、牛丼には卵とか乗せたいです」

「牛丼屋……」

 

 間近に差し出された二つの金色の茶碗を見つめながら、彼は困惑気味に目を瞬いた。

 眠気でぼんやりした頭を振って、SNSで見た男女関係にまつわるあんなご意見こんなご意見を思い出す。

 

 ……そして、書き込まれたご意見の一つに、

 

「婚活デートの時に『牛丼屋で良い』って言ったら本当に牛丼屋に連れていかれて超ムカついた~。普通もっとマシな代案示すでしょ!?」

 

 といった内容のものがあり、牛丼屋擁護派とそうでないものに分かれて大炎上していたことを思い出した。

 ちなみに炎上した本人は「ファーストフード理論を使っただけ! そんなことも分からない相手が悪い!」と居直っていた。

 ……ちなみにファーストフード理論とは『最初に最低な選択肢(ファーストフード屋に行くこと)を提示するとその選択肢を避けるためにみんなが代案(小粋なカフェやイタリアン料理店など)を出し始める』とかいう、これまた一時期ネットで流行った理論である。議論を活発にするためのトリックらしい。

 

 彼はしばらく天井を見上げて考え込んだ後、目の前の彼女に目を戻して、彼女の名前を静かに呼んだ。

 

「……(ゆう)

「はい?」

「……俺は、ちゃんと言ってくれないと分からない。本当はどこに行きたいんだ?」

「え?」

「前にも言ったが、俺は察するということが出来ないんだ。良いと見せかけて実は駄目とか、駄目に見せかけて実は良いとか、そういうなぞかけみたいなコミュニケーションはやめてくれ」

「なぞかけ……? 私は牛丼屋に行きたいだけですが……」

「本当か? それはあの有名なファーストフード理論なるものを使った引っ掛け問題じゃないのか? 牛丼屋に行きたいと見せかけて、実は小粋なカフェやイタリアン料理店などに行きたいんじゃ」

「そんなこと、今この瞬間まで考えてもいませんでした。気にしないで良いです。牛丼屋が良いです」

 

 彼女がふるふると首を振ると、彼はようやく緊張を解いた風にため息をつく。

 

「……分かった。夜は牛丼屋にしよう。一体何が楽しいのかよく分からんが」

「だから、そんな深いこと考えてないですってば。ゲームでゾンビを殺すときにゾンビを殺すこと以外のことなんて考えないでしょう? それと同じですって。

 よしっ、そうと決まればパッパと行きましょう。善は急げです!」

 

 と、言いながら、彼女は手早く食器を片付けて、居間の床に脱ぎ捨てていたスキニーデニムを履き始める。

 彼はぼうっとした表情で数秒それを見ていたが、すぐにハッと目を見開いて、

 

「……はあああああっ!? い、今まで脱いでたのかそれ!?」

「だって暑かったし」

「だからって普通脱がないだろ! どおりで今日は妙に肌色比率が高いと……!」

「だって暑かったんですってばー。どうせ太ももまで丈のあるデザインのおっきなシャツだし、このままワンピースとして着る人もいるようなシャツですから、別に変じゃありませんよ?」

 

 と、彼女はズボンを履く手を止めて口元をとがらせる。

 

「蒔田さんてば眠くてボケボケしていたから、私が脱いだことに気づいていなかったんですね。そうですよ、鈍感な蒔田さんは気づいていませんでしたけど、ずっと生足状態でしたよー。

 ついでに今日のファッションについて説明すると、今日着ているのはこのまま寝巻にも流用できてしまうお泊りデート特化型勝負服で、メンズライクなビッグシルエットと飾り気のないカレッジロゴであざとさを出さずそれとなく彼シャツ感を演出する優秀なファッションアイテムでほらココとか超凄くないですかどんな肩でも華奢に見せる絶妙な切り替えのドロップショルダー!」

「うるさい服オタク! ドヤるのはズボンを最後まで履いてからにしてくれ!!」

 

  と、彼はあわてて彼女から目を逸らし、机の上のスマホを手に取って乱暴に自分のズボンのポケットに突っ込む。彼女はけらけらと笑いながらスキニーデニムを履き終えて、ショルダーバッグを肩にかけた。

 ……ちなみに今から行くのは電子マネーが使えるタイプの牛丼屋なので、持ち物はスマホひとつで事足りる。

 二人して窓を閉めてテレビの電源を切って、部屋の電気も落とす。あんなに暑かったはずの部屋が、それだけで一気に寒々しい雰囲気になる。

 エレベーターのない外廊下は冷えた空気が漂っていた。

 

 

 

「──……あ、そうだ。寒くなってきたせいかどうかは分からないんですけど、今インフルが物凄く流行っているので気を付けてくださいね」

 

 マンションの外の階段を下りながら彼女が言った。

 

「感染者のくしゃみや咳で飛沫が飛んで、それが目や鼻や口の粘膜から入っちゃうと感染してしまうんです。

 感染経路は飛沫(ひまつ)感染と接触感染がメインなので、くしゃみをしている人の一、二メートル以内にあまり近づかないこと。怪しいドアノブや手すりやエレベーターのボタンを触った手で鼻や目を擦らないように気をつけてください。

 インフルエンザウイルスは次亜塩素酸スプレーじゃ死なないので、殺菌用のアルコールスプレーを家に置いておくと万が一の時便利ですよ。連中はアルコールで倒せるのです。喀痰(かくたん)の中に入ったウイルスはアルコールが浸透しなくて倒せないことがあって、下手にアルコールティッシュで拭いただけだとウイルスを塗り広げてしまうことになるので注意してください。今の季節はとにかくこまめな手洗いが大事です」

「……悪い。さっきの衝撃から立ち直ることが出来ていなくて、話が全然頭に入ってこない……」

「ええー」

「だから、済まなかったって。……でも本当に似合っているな、それ」

 

 それ、と言って、彼は彼女のTシャツワンピースを指さした。

 珍しく彼から服装をほめられて彼女は顔を赤くするが、夕闇の中では目立たない。

 階段を降り切った後に彼女は口元に笑みを刻んで、彼の手をとってつないで歩き始める。

 

 彼女が上を見あげると、頼りない半月が空に浮かんでいる。

 彼女は手をつないでいないもう一方の手を月に向かって伸ばしながらこう言った。

 

「牛丼、半分こします? 健康が気になるんでしょう?」

「……それは嫌だ。牛丼は一人一杯と決まっている」

「それもそうですね……あ、そういえば、なんで二つも金ピカのお茶碗があったんですか?」

 

 月に伸ばした手を下ろして、彼女は彼を見てそう言った。

 その瞳にはなんとなく何かを面白がっているような様子がある。彼はそんな彼女からついと目を逸らしながら、

 

「……来客用だ」

「ふうん、そういうものですか」

「……。……君用だ」

「やっぱり!」

 

 ため息混じりに白状する彼と、嬉しそうにパッと笑いながら、繋いでいた手をほどいて彼の手に抱きつく彼女。

 

「普通二個も集めないよなって思っていたんです!!」

 

「歩きにくい」と仏頂面で言う彼に「いいじゃないですか」と言いながら、彼女は彼の腕に抱きついたまま尚もケラケラ笑っていた。

 

「別にいいだろ、二個あったって」

 

 彼が彼女の額をごくごく軽く小突けば、「だって可愛くて」と彼女は何とか笑いを収める。と、次の瞬間彼女はぱっと彼から体を離して、はしゃいだ風に小走りになって、彼の数歩前を歩きながらこう言った。

 

「今度は家で鍋をやりましょうね。そうしたら鍋ははんぶんこできるし、あのお茶碗だって使えますから」

「……だな」

「あーあ、もっと早く思いつけばよかったなあ。

 あのスーパーは潰れちゃったけど、他に良いスーパーがあるといいですね。というか新宿ってスーパーあるんですか?」

「あるぞ割と」

 

 と、言いながら、彼はポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して操作した。

 

「……ほら、スマホで検索しただけでこんなに」

「わー、ほんとうだ! 良かった、これならデパ地下に寄らずにおっきい白菜が買えますね。帰りにここに寄ってみませんか? デザートを買いましょう!」

 

 静けさとは程遠い明治通りを歩きながらスマホをのぞき込んで、彼女が笑う。

 

「……冷蔵庫にプリンがあるだろ」

 

 彼は思わずと言った様子で苦笑しつつ、彼女の手をつなぎ直した。それに気づいた彼女が彼の方に頭をもたせる。

 

「そういえばそうでした。……プリンは、はんぶんこ?」

「半分だな」

「分かりました。……へんなの」

 

 完全に笑いのスイッチが入ってしまったようで、彼女はまだくすくすと笑っている。もう彼も突っ込む気はないようで、ただ笑って彼女の手を引いている。

 いつのまにやらもうすっかり夜で、副都心の景色はすっかり夜景へと装いを変えていた。

 

 

 激しく車が行き交って、テールライトとフロントライトが交差する中、果たす当てのない約束を幾つも重ねながら、今日も彼と彼女は生きる。